こんにちは、私です。
無職を堪能しております。
今の自分のために今を生きてる、そんな感じ。
本が好きだの読書が好きだの言っておいて、
京極先生の本以外に最近全然触れてないことに
ふと気づき、今更図書館の良さを再確認中です。
本って目が合いますよね。
その時の自分に必要な本と目が合う。
脳科学的に立証されてそうなこと〜とかはおいておいて、そんな本と出会えることって幸せだなと思う今日この頃。
心を動かされる本と出会えた時は、
そんな本のために私なりの言葉を綴りたい、
そうして初めて本を読んだと言えるのかもしれない、そんなことを思ったりして、読書感想文を書こうと思う。
「答えを急がない勇気〜ネガティブ・ケイパビリティのススメ〜枝廣淳子著」を読んで
「すぐに答えを出したくなるんです。」と、私は主治医に言った。
答えがない、どうしようもない悩みを考え続けてしまうことも、
ましてやそんな他人の相談を聞くことも非常に不快で面倒に感じる、そうも伝えた。
すると主治医は、精神科医が患者に接する時に大切にしている言葉を教えてくれた。
『日薬、目薬、口薬』
じっと注意深く観察し、ただ寄り添う。
言葉によるアドバイスは一番最後だ、とも。
そして、この考え方は「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼ばれるものに通ずるらしい。
30年以上生きてきて、初めて聞いた言葉だった。
「どうしようもないことを、どうしようもないこととして一旦置いておく。」
「不安をすぐに、解消しようと躍起にならず一旦受け止める。」
主治医はそんなふうに、説明してくれた。
今の私には、それが一番難しく勇気のいることだと思った。
けれども、私を救ってくれる必要な力でもあるような気もする。
その時、心の奥底で静かに波紋が起きた。
──その感覚を、今でも覚えている。
それからの日々の中で、
何度かこのネガティブ・ケイパビリティという言葉を思い出すことはあった。
その都度、反芻していたし、納得もしていたけれど、
それはまだ心の表層を漂っているだけのような、
自分の心に浸透しきっていない感覚はあった。
そんなことをすっかり忘れていた日の夕方。
たまたま行く気になった図書館で、
ふと長椅子に腰を下ろす。
徐に視線を向けたその先の棚にこの本があった。
「ーーネガティブ・ケイパビリティ」
忘れていたけれど、頭の中に確実に刻まれていた言葉が、鮮明に視界に入ってくる。
直感的に手に取り、他数冊の本と重ね貸し出しカウンターに向かった。
本のタイトルは「答えを急がない勇気」。
今の私には一番沁みる勇気の名前だと思った。
答えをずっと求めてきた。
そうするべきだと思っていたし、
そうしなければいけないと思って生きてきた。
そして、それが当たり前だったから何の疑問も持っていなかった。
最初に悲鳴をあげたのは身体だった。
厳密にいえば、きっと既に心は壊れていた。
だけど、その時の私は、一切自分の声を聴くことができなかった。
その時の私には、「正解を出そうと努力する自分」だけが正解であり、
それ以外の存在を許していなかった。
だからこそ、そうではない自分の声を聴くという選択肢すらなかったように思う。
私は自分の心が泣き叫んでいることを無視し続けていたようだ。
もちろん、それが当たり前になっていたから、自覚はまるでなかった。
そのため、いざその心が崩れ、壊れても気付かず、
身体が悲鳴をあげてもなお、心と結び付けることはなかった。
その結果、心がどれだけの間、
泣き叫んでいて、ついには叫び疲れ、
自分に訴えることすら諦めていたのかを
自覚し受容れるまでに、ひどく時間がかかった。
心と身体がどんどんズレていく。
例えて言うなれば、心(今思えば、脳だと言い換えた方が分かり易い)は左に行こうとしているのに、
身体は右にばかり行こうとする。
そんな感覚など感じたことがなかった。
意味がわからなかった。
自分の身体のはずなのにいうことをきかない。
わからないということが、ひたすらに恐怖でしかなかった。
わからないということが、一番怖いのだということも知った。
(不安や恐怖、しいては怪異の正体を分解すると「わからないから怖い=わからないということ自体が怖い」になる、そんなような文章を過去に読んだ本の中に見かけたけれど、こうして答え合わせができるのだから、やはり本は良い。)
この数年は特に、問題解決を(必要以上に)意識して生きてきた。
そして、それを求められる状況下にも多く身を置いた。
その結果、ポジティブ・ケイパビリティ(問題解決能力)の力のみが必要以上に発達したのかもしれない。
その結果、いつしかそれは義務になり、
責務になり、強迫観念となり、
牢獄となった。
だからこそ、その問題自体が何かもわからないということは、ひたすらに私を不安と恐怖の沼に引き摺り込む。
論理的に考えようとすればするほど、身体が拒否をする。
ーーそうして、私は何もできない状態になった。
息をすること、食べること、飲むこと、生きるということ全てが怖くなった。
あれから約1年が経った。
そして、この本を手に取りこうして言葉を綴っている。
今、私は、人生を休止している。
納税はしているが、仕事はしていない。
あれからそれなりに生きてみたりしたけれど、
そうして辿り着いた自分は「ちょっと、人生、休みたい。」ただそう願っていた。
だから、思い切って何もしないことをしようと仕事を辞めた。
やるべき、とか、やらなきゃ、とかで何かを選択することはやめて、
やりたいと自分が思った時に、
自然とその波に乗れるように。
仕事を辞めたことも、
今無職でいることも、
言葉にするなら「卒業」が相応しい。
正解を必死になって探していたあの頃の私には、きっとそれが正解だっただけなのだ。
そんな自分を抱きしめて、受け止めて、一緒に歩いていく、まさに「卒業」だ。
この本をきっかけに、
やっと自分の中に「ネガティブ・ケイパビリティ」が浸透してきたように思う。
輪郭がより、鮮明に明瞭になったような。
これまでの人生、答えを出さないことは、
諦めや逃げだと思っていた節がある。
どこかでそれは卑怯で格好悪いことだと思っていたかもしれない。
だけどようやっと、答えを出さないということが
どれだけ勇気のいることなのか、
改めて自覚させられた。
私の場合、実体験とリンクすることで、
より理解を深められたような気もする。
そう思えば、あの頃の私も、あの時の私も、
ちゃんと自分の手ですくい上げられたような、
そんな気持ちがして心がほんのり温かくもある。
いくつかの章があったけれど、
今の私が心惹かれる章を重点的に読んだ。
あとの章もきっと人生に役立つことが沢山書いてあるだろうけれど、
それを読むのは、その時の自分が心惹かれるまで、一旦保留にしておこう。
本は、読みたい時に読むものなのだ。
一気に読み終えても読み終えなくてもいい。
全部読まなくても、途中で閉じてもいい。
またいつでも読み始められる、そしてその都度、言葉は色を変え形を変え、通り過ぎるものもあれば染み込んでくるものもある。
それがいいし、きっと、それでいいのだ。
正解を出す必要が必ずしもあるわけではないと肩の力を抜き、
白か黒ではないグレーを見出し、
自分の心の声を素直に受け容れそっちも楽しそうだね、
一緒に行ってみようかと柔らかく伝えられる豊かさを教えてくれる、
私の世界はもっと広いのだと連れ出して
解き放ってくれる翼のようなもの、
それがこの、静かで大きな勇気の名前であり、
私にとっての「ネガティブ・ケイパビリティ」である。
了